【レビュー】ある少年の告白

今回は映画のレビューをします。人物軸をメインで語ります。

 

【観ようと思ったきっかけ】

この映画の事を知ったのはテレビの映画紹介のコーナーでした。あらすじを見て真っ先に思ったのは「他人事じゃねぇ」でした。概要は下に書きますが、「もし私が主人公だったら、もし私が生きているのが日本じゃなかったら、彼と同じように施設に入っていたかもしれない」と思ったのです。というのも私の母の実家はそこそこ古い家系なせいか、祖父がかなり古風な考え方の人で、母も少なからずその影響を受けているからです。どのくらい古風かと言うと、祖父の弟が結婚する時に祖父は「年上女房なんてとんでもない」と言い放ったらしいです。我々のたった二世代前です。映画の主人公にとって最大のキーマンが牧師の父であるなら、私にとっての祖父と母だったのだろうと思います。

ちなみにこの映画はR12なのに、この後のコーナーで紹介されていた、性行為に直結するワードが飛び交う海外ドラマは全年齢なのは今でも納得してません。

 

以下の感想は、なるべく登場人物の事を思い出しながら書きますが、横文字の名前が苦手なので名前を最後まで覚えられなかった人物もいます。

以下、ネタバレを多く含むレビューなのでワンクッション入れます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【概要】

一言で言うと、「同性愛を両親に打ち明けた主人公が、LGBTQの矯正施設に入れられる」という実話です。

ストーリーは施設に入った主人公が受講するプログラムの内容と、入所に到るまでの経緯が交互に出ます。こういう過去と現在が入り乱れたストーリーの進め方は私は小説を書く時には好んでやります。なるほどこういう風に見えるのかと最初は混乱しましたが、ストーリー の真相を過去に持ってきたい場合には有効なのだと思いました。

 

【同性愛の矯正施設とプログラムについて】

映画内に出てくる施設では最初に12日通所し、長期の治療が必要だと判断された場合は泊まり込みの期治療施設(家と呼ばれる)に移されます。教官やスタッフもこの施設の卒業生だそうです。受講生は中にいる間は携帯電話やメモは持ち込めず、プログラムの内容を口外しないように厳しく指導されます。トイレもスタッフの付き添いが必要です。

主人公ジャレッドがここに入った初日に行った事は「家系図を書き出し、親族の罪を列挙すること」です。所長サイクス曰く「問題には必ず原因がある。原因を認識し自身と切り離すことで罪を自分の外に出す」との事です。ここで言う罪とは同性愛、アルコール依存、喫煙、ドラッグ、DV、中絶などで、犯罪に限りません。最初に言われた「君達がここに来たのは、君達の選択の結果だ」といきなり矛盾している気もします。おそらく「(同性愛という)罪を犯すという選択をする弱さの原因は親兄弟の罪だ」という考えなのでしょう。

プログラムは教会を模した部屋で行われます。受講生は日替わりで前に立たされ、自身の犯した同性愛の罪を告白し「この試練を与えた神に感謝します、なぜならここに来ることが出来たからです」と述べます。

同性愛という試練に負け罪を犯したことを懺悔し、克服する事がこの施設の目的だと解釈しています。

 

【観終わって思ったこと】

「この映画を観ようと思った人達は何を思ったのだろう」「観終わってどう感じたのだろう」

 

【観ながら思った事】

一言で言うと「あぁやっぱりか」でした。映画の内容を聞いた時から「もし私がこの施設に入所したらどう振る舞うか」と考えていましたが、想像の通りになりました。

 

【ジャレッド】

主人公です。映画は彼の幼少期の写真や高校時代の家族とガールフレンドと如何に円満な人間関係を築いて来たかを見せる所から始まります。この時点で彼にシンクロMAX。ガールフレンドと家族ぐるみの人間関係になっているというのがさらに厄介です。

女性に対して性的な興奮を感じられない事に疑問を感じていた彼は、大学の寮での事件をきっかけに矯正施設への入所を決断させられます。「決断させられる」という言い方を選んだのは、あの状況で頷く以外の選択肢は無かったと思うからです。この決断のシーンが苦しくて仕方なかったです。本意ではない形で両親に自身がゲイであると打ち明けざるを得ない状況に追い込まれますが、このシーンでは彼はまだ自分が同性愛者である(かもしれない)事にうまく向き合え切れていなかったのだろうと考えています。だってまだ彼は19歳だし。後から出てくる回想のシーンでも彼はずっと不安そうに眉間にシワを寄せています。

 

【サラ】

矯正施設にいた女性。小柄でいつも肩に力を入れてオドオドしている姿が印象的でした。教会のような背景で舞台に立たされ、女性との性行為について具体的に語ることを強要される彼女は「そこまでする必要ある?」と思うくらい、やめてあげて欲しかったです。「女性性を取り除くため」なのか何なのか、豪速球を浴びせられて腰をぬかして震える彼女を思い出すと「あの世界観で女性に求められる性役割とは」と首を傾げます。少なくとも彼女のように「頼りなさげに震える姿」は求められていないのでしょう。彼女は「長期的な治療が必要」と判断され、家に移されます。

サラとジャレッドの母ナンシーの姿を対比して考えると、「あの世界観で求められる女性像」が具体化する気がします。おそらくあの世界観における理想的な女性像とは序盤のナンシーのように「男性に従属する姿」であり、サラのような「弱々しさ」は求められていなかったのだろうと推測します。

 

【眉間に傷のある彼】

全員が教官と握手をする中で、彼だけは敬礼で返します。曰く「触れ合わないようにしている」とのこと。施設にはいるのは2回目で、ジャレッドに事あるごとに忠告をします。施設内では必要以上の訓練生同士の接触は禁止事項です。そんな彼がジャレッドを呼び止めるために腕を掴んだシーンがスローになる演出が、ジャレッドの行動が如何に考えなしで、問題のある行動だったかを訴えているように感じました。彼はジャレッドに、家に行って欲しく欲しくなかったのでしょう。

 

【矯正施設卒業生の教官】

一列に立たせた訓練生に彼は怒鳴ります。「出来るようになるまで、出来るフリをしろ」自分もそうやって同性愛を「治療」したと繰り返して言います。男らしく振る舞う為の姿勢を指導します。男らしい立ち姿、男らしい表情。訓練生を一列に並べてサラに「男らしいと思う順に並べろ」という指導が意味不明すぎて「拷問かな?」と思いました。

 

【大学のカウンセラー】

彼女が登場したのはワンシーンだけの完全なるモブキャラだと思いますが、私の印象に残ったのは彼女が「どちらとも言い難い」立ち位置だったからでしょう。私はキャリアコンサルタントの勉強をした事があるので即座に理解しましたが、カウンセラーと言うのはカウンセリングの相手に深入り出来ないのです。あくまで公正な立場で第三者で居なくてはなりません。

彼女はジャレッドの父マーシャルからジャレッドの血液検査を依頼されます。彼女がジャレッドに語った「私は敬虔なキリスト教信者であると同時に医学を修めた者です」という立場はバランスの取り方が難しいと思います。「信者としての私は同性愛を否定しなければならない」「医師として私には、同性愛を否定する科学的根拠はない」の2つは少なくともジャレッドが抱えている問題については両立できません。だから彼女はジャレッドの血液検査はせずに「あなたは健康な思春期の男性よ」と言いはしたものの、それ以上の干渉は出来なかったのだと思います。

 

【キャメロン】

プログラム受講生の1人。個人的にこの映画で一番可哀想なのは彼だと思っています。彼は自身が犯した同性愛の罪を告白した際にサイクスに厳しく追求されます。「君はここに君を入れた父親に怒っているという。だがその怒りが感じられない」と。どんなの追求されても言葉が出て来ず項垂れるキャメロンにサイクスは「そこで1日考えていろ」と怒鳴ってその日は終わります。その翌日にジャレッドが施設に入ると、葬式の様な異様な雰囲気になっていました。「今日は悲しいお知らせがある」と壇上で語るサイクスの前には革製の棺桶のような箱があり、その後ろにキャメロンが座らされます。キャメロンは結局サイクスを満足させる言葉が言えなかったのでしょう。蹲ったキャメロンの背中に向けて「彼は自分の中の悪魔に打ち勝つ事は出来なかった。だから私はこうして彼の中から悪魔を叩きださねばならない」と言いながら聖書を振り下ろしました。「他に、彼の悪魔を叩き出す者は居ないか」とサイクスが受講生達に呼びかけた時に手を挙げたのは、眉間に傷のある彼でした。誰もやりたくない事を買って出たのです。その後幼い妹や両親も泣きながらキャメロンの背中を聖書で殴ります。バスタブに押し込まれているシーンもあったので水責めじみた事もされたのでしょう。

ジャレッドは施設を出た後に彼が自殺したと知らされます。

 

【マーシャル】

ジャレッドの父。車の販売店の責任者で、日曜日は協会で牧師をしています。ジャレッドが同性愛を打ち明けた際、彼は自宅に2人の男性を呼びます。この問題に詳しいという男性と、協会での「長老」にあたる男性だそうです。前者の男性は親族に施設で同性愛を「治療」した人がいるのではないかと推測しています。男性2人と話し合った後ジャレッドに「今日はもう疲れただろうから1つだけ答えて今日はもう寝なさい」と前置きして「本当に改善する気があるか」と問います。その隣ではナンシーが泣き崩れています。この状況でNoと言うのは無理だと思います。

ジャレッドが泣きながら施設を飛び出して来た際も、彼は施設に戻るように言います。

ジャレッドが真剣に重要な事を尋ねる度に、考え込んで違う話をする彼が腹立たしかったです。マーシャルは敬虔な信者であるがゆえに、自分と同じように立派なキリスト教信者になるよう育てた息子が同性愛者だという事を最後まで受け入れきれなかったのでしょう。

最後のシーンで彼がジャレッドに向かって「孫を抱く事ができないことを恨んだ事もある」と言ったシーンは怒りを覚えました。

 

【ナンシー】

ジャレッドの母。ジャレッドが同性愛を打ち明けた夜に悲壮な表情で涙を流していました。息子の同性愛者という罪とどう向き合えばいいのか分からなかったのでしょう。男達が話し合い、ジャレッドを施設に送り出す事が決まる間、彼女は一言も口をききませんでした。

彼女はジャレッドが通所している間にプログラムの内容を話さない事、親族の「罪」を聞かれた事、ジャレッドの表情から「治療」について疑問を抱き始めます。ジャレッドから「今すぐ迎えに来て」と電話を受け取った彼女はジャレッドを引き渡すまいとするサイクスに対して「恥知らず」と怒鳴りつけます。彼女は毎週通っていた教会にも行かなくなりました。神の言う「異性と結ばれなければならない」という思想に疑問を持つようになったのでしょう。「夫のことは愛しているし、神の事も愛している。けれど息子の事も愛している」と語った彼女は「夫の事も神の事も否定しない」それとは別に「ジャレッドの心を尊重する」という立ち位置を自分で見つけたらのでしょう。

ナンシーが更生プログラムに疑問を持たなかったら、きっとジャレッドはきっと「家」に移されてさらに過酷な更生プログラムを受けることになったでしょう。

 

【サイクス】

矯正施設の所長。初日にジャレッドから預かったノートに書いていある小説のメモを破り取りました。大学のレポート用に書いていていた少年と少女の恋愛の話です。後にジャレッドと面談をする際にそのメモを見せて「これは少年と少女の話か?」「本当はこれは少年同士を想像して書いたんじゃないか」とジャレッドを問い詰めます。ジャレッドは何度も「ただの創作だ」と答えますが最後まで納得しませんでした。

ジャレッドが罪の告白をする日にも厳しい口調で問い詰めます。ジャレッドの告白の内容は「同性に一目惚れをし、2人で手を繋いで一晩眠った」というものでした。「それだけじゃないはずだ」「君はまだ隠し事をしている」要するに、同性愛者が恋愛関係になったのなら性的な関係になったに違いない、という事です。これは恐らく異性愛者から見た同性愛者への偏見なのだと思いました。例えば男性が同性愛を友人に打ち明けた際に「ヤベー、掘られるw」などと言われて不快な思いをしたという話はよく聞きます。腐女子に対して「ネタにされるww」と冗談を返す男性と似たものを感じます。極端な言い方をしますが「同性愛者は性的嗜好が倒錯してるのだから、須く淫らである」という偏見なのだと思います。

喫煙は罪だと厳しく指導しているサイクスが喫煙しているところを目撃したことでジャレッドの「治療」への疑問は加速します。

 

【エンディングについて】

ジャレッドがこの体験をネット記事に掲載した事で実態が暴かれます。ジャレッドは執筆に専念する為に親元を離れる事にしますが、その時までマーシャルはジャレッドが同性愛者である事実と向き合いきれていませんでした。「あの夜(ジャレッドが同性愛を打ち明けた時)、私は牧師として正しい行動をしたと思っている。長老と有識者を呼び意見を仰いだ」と言いながら、ジャレッドに答えにくい質問をされるとしばらく黙り込んだ後に話を逸らします。映画自体はジャレッドとマーシャルが別れたところで終わりますが、最後にジャレッドとマーシャルが抱き合っている写真が出てきます。お互いに理解出来ないなりに歩み寄りをして和解したのだろうと思っています。

ノローグで現在も大勢の若者が「治療」の影響を受けている、筆者は彼らのために活動をしていると表示されます。最後に「実際のサイクスは現在は夫と暮らしている」と表示されて終わりました。サイクスも「治療」を受け、「克服出来るまで克服したフリをしていた」という事なのでしょう。

 

セクシャルマイノリティは罪なのか】

サイクスがホワイトボードにベン図を書きながらLGBTの説明をしているシーンで気になった事あがります。一瞬画面に映ったベン図ではLGBとTを区別していました。つまり恋愛志向と性別自認についてはきちんと区別した上で「性的マイノリティは罪だ」と指導していたのだと解釈しています。

心と体の性別が一致しない事は罪なのでしょうか?私が女性の服装も男性の服装も着たいと思うのは罪なのでしょうか?でしたら最近メディアで見かけるようになった「ジェンダーレス」という人達は罪なのでしょうか?では、結果的に異性と結婚したバイセクシャルの人は?

そういう人よりも、小児性愛や死体性愛(ネクロフィリア)やライヒェンシェンドゥング(屍姦症)の方が余程罪深いと思うのは私だけではないはずです。

 

【治療について】

この映画で取り上げられたような、同性愛を「治療」する事を「コンバージョンセラピー」と呼ぶそうです。会話療法や嫌悪療法、場合によっては暴力を用いてヘテロジェンダーに作り変えます。中国では頭に電気を流して治療するなんていう恐ろしい事をしている場所もあるそうです。

私がこの映画を知った時に「他人事じゃない」と思ったのは「アロマンティックという概念が広く知られる様になったら、アロマンティックはコンバートされるべきだという主張が出てくるのではないか」と思ったからです。世の中には少女漫画を筆頭に恋愛に関するコンテンツが溢れています。「少女は年頃になったら同じ年頃の男性に恋をして困難を乗り越えて結ばれるものだ」と刷り込まれます。実際に私の周りの女の子達も同級生や先輩に「恋」をする様になりました。エロシーンのある漫画を回し読みして居ました。

「異性と恋愛をする」というのはそういうコンテンツや周囲の雰囲気からの刷り込みなのではないかと私は思っています。大多数がそうであるから「それ」が普通で、そうでない人は「そう」である様にコンバートされるべきという思想なのだと思います(実際に恋愛をしていないという理由で同級生から無視をされた事があります)

 

【まとめ】

日本でもLGBTという単語は少しずつ知れらるようになりましたが、我々アロマンティック、アセクシャルという存在が周知・理解されるのは当分先のことだろうと個人的に予想しています。それまで我々は恋愛至上主義の社会で半ば隠れる様に過ごさねばならないのか、と億劫になったります。

ナンシーの事と女性の性役割について考えていたら、別のアニメ作品と結び付いた部分があったので、それもそのうち記事にします。

 

これにて、今回のレビューは終わります。

思いついたままに書きなぐったので読みづらい部分もあったでしょう。最後までお付き合いいただきありがとうございます。